TMTのブログ

思ったことをそのまま綴ります

驚いたこと

「相手の嫌がることをするんじゃない」
我々はこの台詞を一度は耳にしたことがあると思う。
この文句にはこう加えられることもある。
「自分の嫌なことは相手も嫌なはずだ」と。
つまり、自分がされて嫌なことは相手にするなということだ。
 

 ここで、「他人を自覚的に意識的に踏みにじる人間」というのはどうだろうか考えたい。この人間は相手の気持ちが理解できてる人間だ。相手が何をされたら嫌なのかをはっきり理解している。
はっきり言って、嫌いな人間になるだろう。
 しかし、本当に恐ろしいのは「無自覚に無意識に他人を踏みにじる人間」ではないかと思う。このタイプの人間は相手の気持ちなど「まるで理解していない」。それどころか、恐らく考えようともしていない。怒りすら感じない。恐ろしい、その一言に尽きる。
 そのタイプには恐らくいくつか傾向がある。一つは全く考えてない場合。それこそ行動一つ一つに自分の意思など関係なく相手に不快感を与えることができる人間。こんな人間がいてたまるかとも思うが、いるのかもしれない。
そしてもう一つは、完全に相手とは違う人間。本当に、何から何まで。「自分がされても平気だから相手もされても構わないだろう」
一見、自覚もあり意識もしているようだが、これははっきり言って無自覚だ。「自分がされて嫌なことを相手にしない」ことは大事なことだが、『自分が平気だから相手も平気』という考えは成り立たない。


 人間は様々な文化、慣習の元で成長する。教育は自分の育った環境をより学ぶと同時に、他の文化への協調性を学ぶ場でもある。相手の文化を否定するのではなく、それに触れた時に拒絶しないように訓練する場でもあるのだ。
 違う文化であることは仕方のないことだが、配慮は必ず必要だ。その行為は相手にどのような影響を与えてしまうのか、不快に思うことはないか、傷つけてしまわないか。
 人間の行動というのは、もっと言えば全ての動物に言えることだが、その「行動」それ自体に意味を持つ。例え自分にそのような意思がなかったとしても、受け取り手がどう解釈したかが非常に重視されるのだ。そして、それは時として取り返しのつかない事態を生み出してしまうこともあり、とても注意しなければならない。
 自身の行動に常に責任を持ち、過ちを犯さないように細心の注意を払い、他者を尊重し、真に相手の気持ちになって考えるとはどう言うことか理解する。仮に過ちを犯してしまったのなら、誠心誠意謝罪をし、また「行動」で示せばいいのだ。


 人は過ちを犯す生き物であり、仕方のないことだ。それを回避するためにも、相手とのコミュニケーションを怠ることはしてはならない。それを面倒くさがってはいけない。
相手が「きっとわかってくれる」なんて淡い期待に頼ってはいけないのだ。
「言葉」じゃなければ伝わらないことも世の中いっぱいある。それも重要なことだと私は思う。
 少なくとも、これらを面倒くさがり、せっかくの繋がりを最も簡単に切ろうとはしないで欲しいと、私は願う。


これらは所詮、僕の戯言だ。

その瞳に映る世界

私たちは光を目で認識して物を「見て」います。その光の波長が違うために様々な色が存在することは皆知っていることです。

人が認識できる光を可視光といいます。その外側には紫外線や赤外線、X線と言ったものも存在しますが、人間の目では認識することが出来ません。動物の中には人間には認識出来ない範囲の光を見ることが出来るものもいるようです。また、デジタルカメラなどでテレビのリモコンなどを見ていると、赤外線を見ることが出来るそうです。

何が言いたいかというと、この世には我々が認識出来ない世界が実は目の間に広がっていると言うこと。そして、人は認識できない物は存在し得ないと断定してしまっていることです。
もしかすると、そこにないようで何か存在しているのかもしれません。世界はまだ解明されていないとも言えます。

次に可視光についてです。可視光には様々な色がありますが、それには様々な名称が着けられており、人々は赤、青、黄などの呼称で認識しています。

理科のお勉強をしていた私は生物によって、同じ物を見ているのに全く違う色に見えていることを学び驚きました。また、色盲という障害を抱えている方がいることも知りました。
それを知ったとき、私は不安になりました。「果たして、私が認識している赤色は他の皆が認識している赤色と同じなのだろうか?」と。
我々は幼い頃に見た色とその名称を無意識のうちに暗記しました。それさえきちんと一致していればその後は全く困らないのですが、他の皆が同じ言うに見えている保証はどこにもありません。

これを証明する方法を考えましたが、私の頭では無理でした。色を色の名称以上の情報で言語的に補うことが出来なかったからです。

隣にいる人間が実は自分とは全く違う景色を見ているかもしれない。
そう考えるとなんだか変な気分になりますね。

人との繋がり

初めに言っておきますが、私は人間不信であります。基本的に人を信じておりません。もし裏切られたときにその方がショックが小さくて済むからです。

私はかつて人を信じる素直な子供でした。友達はみんな自分のことが好きなはずだし、自分もみんなが好きだし、家族は無条件に自分を愛してくれて。
世界中のみんなが優しさと思いやりをもって手と手を取り合って仲良く生きている…
そんな幻想を抱いていました。

私はある意味普通ではありません。他の子供が好きになったりする事とは違う物だったり、何かと感性がずれている節があり今はそれを自覚しています。
子供だった自分はそれが理解できなかった。それでもそんな自分を認めてくれると思っていたのでしょう。

現実は違いました。
人間は社会において集団生活を強いられます。集団生活をするにあたりルールなどを使いその統制を図りますが、最も有効的な手段は特定の個人を切り捨て、共通の敵にすることなのです。
切り捨てる対象になったのは私のような「普通」ではない者だったのです。

この仕組みができあがるにはもちろん、その中心角になる人物がいます。そしてその人を中心にどんどん周りも行動に移すようになるのです。最後には自分に近かった人物や、社会的弱者が残ります。

彼らは心から私のような者を阻害するつもりはありません。しかし、私の肩を持てば次にターゲットにされてしまうのは目に見えています。
どんなに仲が良くても、自分を守るため
仕方がなかったとは言え、友達が次々と自分から離れていってしまったのはとても辛かった。

このような集団の人間はお互いのことを「友達」や「仲間」と呼び合い結びつきを何かと強調しあっています。
私はこのような人々は「馴れ合い」と呼んでいます。こんなものは友達でも何でもありません。

私のなかで友達とはたとえ自分にメリットがなくても、むしろデメリットを及ぼすかもしれない状況でもお互いを助け合うことが出来る関係だと思います。
こんな人間は恐らくなかなかいないと思います。私の中での友達ってすごくストライクゾーンが狭いんです。

この一件を受けて、人間は常に無意識のうちにメリットデメリットを考えて行動している生き物だと思うようになりました。よく考えれば当たり前のことなんですが。
じゃあ人助けは?ボランティアは?なんて言う人がいますが、これはしている人に確かに物的利益はありません。

しかし、give and takeの関係を気づきたい場合もあるし、助けておけば次に自分が困ったときに助けてもらえるかもしれません。
そして、何より助けたという達成感や満足感を得ています。
これを感じない人間を我々は聖人と呼びます。現実にはそういません。
私はそんなことないよ!と言う人がいるかもしれないけど、本当にそうでしょうか?もしいるとするならば私はそんな人間は気持ち悪くて仕方ありません。あなたにはちゃんとした感情はある?と訪ねたくなります。

それくらい自然なことだと思うのです。みんなそう思っているはずです。

無条件に助けてくれる相手なんて家族ぐらいなはずです。私の場合、その家族すらメリットデメリットで動くので信用していませんが。

私は誰かに何かをしてもらうとき、必ず相手が何を考えているのか考えてしまいます。むしろ相手にとってのメリットがはっきり見えていればこちらとしても安心して頼ることが出来るのです。
しかし、見えない相手もいます。その人は何を考えているのかわからない。相手の手の内が見えないというのは実に恐ろしい物です。

これまで友達という友達があまりいなかった私にも最近友達が増えました。
その人たちが困ってたら私は助けてあげたいと思うし、彼らも私が困っているときにはきっと力になってくれると信じています。はずなのですが、やはり裏切られたときが怖いのです。そんな風に思っているのが自分だけだったらどうしよう?
そう言う意味ではまだ彼らを友達として受け入れることが出来ていない、私は友達失格の人間かもしれません
#エッセイ

人の行く末

 人間はいつか必ずこの世を去るときが来ます。それは必然的です。では、死んだ後我々はどうなってしまうのでしょうか。


 私はたまに思います。この世界では「私」という概念を他者が認識する際、恐らくはまず外部的特徴から理解するんだと思います。どのような顔をしているのか。太っているのか、痩せているのか。背は高いのか、低いのかなどです。
初めから他人の内面が見ることが出来る人間がいたらすごいですよね。
私はいつからかは覚えていませんが、自分の身体と精神を別のものと解釈するようになりました。これはどういうことかと申しますと、あくまで「私」という個体は精神いわば魂にこそあり、身体は精神である本体が操っている外装のようなものに過ぎないという考え方です。
近年映画やゲームなどで使われている「アバター」という言葉がとても近い気がします。そう身体は現実世界において我々が生まれつき与えられたアバターだと思うようになったのです。


 私は死について考える際に、いつもこのアバターが限界を迎えているだけなのではないかと思うようになりました。身体と精神のリンクが何らかに要因で途切れてしまうことこそ「死」なのではないか?では、人間は死んだ後その本体である精神はどうなってしまうのだろう?
そう考えてしまうのです。
人間の魂というのはそれが質量を持つのかとか、エネルギー体なのかとかそんなことは私にはわかりません。ただ、今まで一度だってそのようなものは観測されたことはないし、恐らくはそうではないんでしょう。この次元世界には存在し得ないものなのだと思います。


 身体がなければこの世界では存在できない魂。その行く末は結局想像するしかないのですが、私は消滅する予想ではなくあくまで魂が存在することの出来るさらに一つ上の次元に移動していると願いたい。そこは恐らく俗に言う天国という場所なのでしょう。
時間軸も座標軸も凌駕して、あらゆる場所に同時に存在でき、常に我々のことを見ていてくれる。案外悪いところでもないのかもしれません。
ただ私は自殺願望があるわけではなく、もう少しこの現実世界で≪ゲーム≫をプレイヤーとして頑張っていこうとは思いますが。ゲームの話はまた別の機会に。
長々と話させていただきましたが、全て想像上での話です。わからないからこそ死は恐怖を伴い、人々を不安にさせるんだと思います。

浪人生としてのあり方

 人生にはいろんな道があると個人的には思う。

中にはそうは思わない人もいるようだが。

 

私は浪人生だ。

非常にアンバランスな立場であり、理解されないことも多い。

 

私はある程度の大学までは合格した。

いわゆる滑り止めというところだ。

しかし、本質的にやりたいことと大学が違っていたので再チャレンジする道を選択した。

それが浪人という道だ。

 

 浪人生にもいろいろいる。

親がある大学以外許さないから浪人した。

高校時代全く勉強しなかったけど、大学は行きたいからとりあえず浪人した。

全部落ちてどこもいけないから浪人した。

 

境遇はいろいろだ。

 

そして基本的にこれらどの立場であろうとも浪人生は蔑まれることになる。

 

惨めなのだ。

 

 現役で大学に行く。

これもいろいろな場合がある。

第一志望に合格して大学に行く。

滑り止めに合格したから大学に行く。

エスカレーターで何もせずに大学に行く。

 

そして大学に行くこの行為にもいろいろな理由があるのだ。

日本の大学生の大部分、9割と言っていいだろう。

そのほとんどが就職のためである。

 

大学とは本来、専門的学問を修める場であり

学びたい者が集まっている場所だった。

 

それが今の大学生を見てどうだろうか?

勉強したくない

学問を修めることよりも友達を増やす方が重要だ

遊べるのは今しかない

遊びまくろう

 

高い授業料を払って、高等教育を受けにわざわざ4年も費やして大学に行き

そんなことを自ら望んでやっているのに、勉強したくない?

全く意味がわからない。

 

海外の大学を見て見てほしい。

彼らは勉強で手一杯だ

日本の大学生の何倍も勉強している

一生懸命に

そこで自信をつけるのだ

 

「大学に行けば就職で有利になる」

本来当然の事なのだ。

大学を出たか出てないかで本来生じることは

専門的知識や技術を習得した者の証だからだ。

 

でも、今の大学生はとてもそうは言えない。

 

 私は技術者になりたい。

そのために大学受験をする。

正直、昔は何も考えていなかった。

でもある時、受験勉強が嫌で嫌で

機械いじりや、プログラムの勉強、パソコンを使った設計など

そいうことは大好きで

それさえ出来ればいい、その勉強はしたいけど受験勉強なんてやりたくないと思った。

 

だから考え、調べた。

答えは大学に行くしかないということだった。

 

それも、自分がやりたいことは極わずかな大学のみでしかできないということだった。

私はそこに入れなければ、大学に行く意味はない。

 

やりたいことが出来る大学に行き、そこで頑張らなければ大学に行く意味がない。

就職の道具に使う人にとっての大学と

私にとっての大学とは意味が違うのだ

 

どこでもいいわけじゃない。

 

ある人は言った。

「お前は夢を語って浪人した」と

そうじゃない

私は「現実を見て浪人したのだ」

 

浪人することは楽しいことではない。

哀れに見る人もいる。

蔑むものもいるし、どこでもいいから早く大学に入れとか無責任なことを言う奴もいる。

楽しくもないのになぜ浪人すると言ってくるものもいる。

 

それは、全て先のことを考えて行動しているからだ。

 

何となくで行動してる人よりかはよっぽど自分のことを考えて生きている。

すごく充実した、自分と向き合うことのできる濃厚な時間を過ごしている。

 

大学に落ちたことは不幸なことだ、でも浪人したことは不幸ではない。

ブログ始めました

ブログ始めました

とこの見出しから始めることはもはやブログとしては当たり前すぎて新鮮味も何もない。

 

物事には始まりと終わりが必ず存在するのだから、始まりがなきゃおかしいのだ。

それをいちいち言う必要性はないだろう。

 

では何故みんなこのセリフを言うのだろうか?

それはある種の宣言に近いと私は思う。

 

それは誰かに向けではない、自分自身への宣言だ。

これから何を書こうか、どういうブログにしようか。

希望や、期待を持ってブログを始める。

日記ではなく、こうしてネットを通じて誰かに見てもらおう、発信しようとするのだからそれなりの覚悟はしているはずだ。

 

そしてその期待の分だけ不安もあるだろう。

書くことがなくなって、途中で書かなくならないか。

更新が途絶えることはないだろうか。

反感をかうことはないだろうか。

 

それに打ち勝つ意味での宣言なのだと思う。

 

私は物書きではない。

文章構成や、わかりやすい記事を書くつもりはない。

これは自己満足なのだ。

 

私はTwitterなるものをしているが、あれはなかなか興味深いものだ。

しかし、自己主張をする場としてはいささか制限がありすぎる。

 

こうして長々と自分の意見主張を勝手に書くことができると言う点でブログは素晴らしい。

 

だから、ここでは自分の好き勝手に意見を言っていこうと思う。

気張らず、なんとなくでやっていく。