TMTのブログ

思ったことをそのまま綴ります

人との繋がり

初めに言っておきますが、私は人間不信であります。基本的に人を信じておりません。もし裏切られたときにその方がショックが小さくて済むからです。

私はかつて人を信じる素直な子供でした。友達はみんな自分のことが好きなはずだし、自分もみんなが好きだし、家族は無条件に自分を愛してくれて。
世界中のみんなが優しさと思いやりをもって手と手を取り合って仲良く生きている…
そんな幻想を抱いていました。

私はある意味普通ではありません。他の子供が好きになったりする事とは違う物だったり、何かと感性がずれている節があり今はそれを自覚しています。
子供だった自分はそれが理解できなかった。それでもそんな自分を認めてくれると思っていたのでしょう。

現実は違いました。
人間は社会において集団生活を強いられます。集団生活をするにあたりルールなどを使いその統制を図りますが、最も有効的な手段は特定の個人を切り捨て、共通の敵にすることなのです。
切り捨てる対象になったのは私のような「普通」ではない者だったのです。

この仕組みができあがるにはもちろん、その中心角になる人物がいます。そしてその人を中心にどんどん周りも行動に移すようになるのです。最後には自分に近かった人物や、社会的弱者が残ります。

彼らは心から私のような者を阻害するつもりはありません。しかし、私の肩を持てば次にターゲットにされてしまうのは目に見えています。
どんなに仲が良くても、自分を守るため
仕方がなかったとは言え、友達が次々と自分から離れていってしまったのはとても辛かった。

このような集団の人間はお互いのことを「友達」や「仲間」と呼び合い結びつきを何かと強調しあっています。
私はこのような人々は「馴れ合い」と呼んでいます。こんなものは友達でも何でもありません。

私のなかで友達とはたとえ自分にメリットがなくても、むしろデメリットを及ぼすかもしれない状況でもお互いを助け合うことが出来る関係だと思います。
こんな人間は恐らくなかなかいないと思います。私の中での友達ってすごくストライクゾーンが狭いんです。

この一件を受けて、人間は常に無意識のうちにメリットデメリットを考えて行動している生き物だと思うようになりました。よく考えれば当たり前のことなんですが。
じゃあ人助けは?ボランティアは?なんて言う人がいますが、これはしている人に確かに物的利益はありません。

しかし、give and takeの関係を気づきたい場合もあるし、助けておけば次に自分が困ったときに助けてもらえるかもしれません。
そして、何より助けたという達成感や満足感を得ています。
これを感じない人間を我々は聖人と呼びます。現実にはそういません。
私はそんなことないよ!と言う人がいるかもしれないけど、本当にそうでしょうか?もしいるとするならば私はそんな人間は気持ち悪くて仕方ありません。あなたにはちゃんとした感情はある?と訪ねたくなります。

それくらい自然なことだと思うのです。みんなそう思っているはずです。

無条件に助けてくれる相手なんて家族ぐらいなはずです。私の場合、その家族すらメリットデメリットで動くので信用していませんが。

私は誰かに何かをしてもらうとき、必ず相手が何を考えているのか考えてしまいます。むしろ相手にとってのメリットがはっきり見えていればこちらとしても安心して頼ることが出来るのです。
しかし、見えない相手もいます。その人は何を考えているのかわからない。相手の手の内が見えないというのは実に恐ろしい物です。

これまで友達という友達があまりいなかった私にも最近友達が増えました。
その人たちが困ってたら私は助けてあげたいと思うし、彼らも私が困っているときにはきっと力になってくれると信じています。はずなのですが、やはり裏切られたときが怖いのです。そんな風に思っているのが自分だけだったらどうしよう?
そう言う意味ではまだ彼らを友達として受け入れることが出来ていない、私は友達失格の人間かもしれません
#エッセイ